彩葉のほほん日記

彩葉は、のほほんと過ごしています。

頼光がダメな理由10


ユメミル、デジ6(ロク) 頼光



大宮通北大路下るにある若宮神社です。平安時代源頼光が、を勧請して邸宅内に創建した鎮守社が起源であるといいます。若宮神社とは石清水八幡宮に対する若宮(新しい神社)の意味だそう。もとは現在地よりも西北にあり、明治10年(1877年)、現在地に移転。昭和5年(1930年)、区画整理により隣接していた今宮神社御旅所との間に新たな大宮通が通されることになったため(従来、大宮通は今宮神社御旅所で行き止まり、左折して大徳寺東隣を抜けて鯖街道に繋がっていた)現在のように東正面になったそうです。参道。二の鳥居。本殿。現在の祭神は清和天皇源頼光清和天皇の曾孫(清和源氏)とされることから。清和天皇(850〜881)は56代天皇文徳天皇の第四皇子。母は、藤原明子。諱は惟仁。異母兄が3人あり、特に長兄の惟喬親王は父から愛されていましたが、外祖父・藤原良房の権力を背景に生後8か月で立太子。天安2年(858年)、9歳で即位。外祖父・藤原良房が人臣初の摂政となって業務を代
行します。貞観8年(866年)、藤原基経(藤原良房の甥で養子)の妹・高子が入内。同年、応天門の変が勃発。これを解決した藤原良房、基経の地位が上がります。貞観14年、27歳の時、9歳の貞明親王(清和天皇第一皇子。母は藤原高子)に譲位、陽成天皇が即位。退位後は清和院に移り、在位中にいた30人近い女御更衣宮人とも距離を置き清い生活を始めたと言います。元慶3年(879年)、北白川の粟田院(藤原基経の別荘)に移り29歳で出家。粟田院を円覚寺と改めます。仏道修行を行うため、大和・摂津の寺々を巡行。元慶4年、山城国水尾の山中に居を定めることにし、水尾山寺を建造中、仮居としていた左大臣源融の別荘・棲霞観(現在の清凉寺)で発病。円覚寺に移され、32歳で崩。水尾帝と呼ばれます。清和源氏の祖とされます。若宮神社京都市北区紫野雲林町1






頼光を楽しむ方法





やっとここまでやって来た。

目の前には憎んでも憎み足りない丑御前。

ゆうべ、じゅんと契った。

あれが最後になるかもしれない。

俺は、あの子の為にこの妖を屠る。

「来たのね、頼光。

あの子の身体は良かった?

狂ったように抱いて満足した?

足腰も立たないくらい抱いて、壊してきた?」

俺に追い詰められている筈なのに、余裕の笑いを見せる丑御前。

「あんたの狂気で傷付けられて、可哀想な子」

河を背にしもうどこにも逃げ場はない。

「どうだっていい話だ」

「そう?そうね、どうでもいい話。

で、どうするの?私を殺したい?」

「聞くまでもないことだろ」

イライラしてきた俺は血吸を構えた。

「お前をこのままにはしておけない。

この手で殺してやる」

「ふ、ふはははは!

やれるものならやってみろ!

わかっていないのはお前の方だ!


私を殺して無事に済むと思うな!」

ただで済むかどうかなんて、やってみるまで誰もわからない。

俺はこの化け物を倒さなくてはいけない。

じゅんの為に。

その時、

「しょう!やめろ!

丑御前を殺すんじゃない!」

そう叫びながらまさきの駒が走ってくる。

邪魔だ。

まさきに気を取られていては丑御前は、倒せない。

「波切!河を斬れ!」

まさきが何か叫んでいる。

うるさい。

自分の中から音を消し、妖に躍りかかろうとしたその目の前で、

ザーッとすみだ河が裂けた。

「な!」

丑御前が河の中へ下がっていく。

そして、壁になっていた河がゴオッという音をたててもとに戻り渦となり丑御前の姿を隠した。

「どこだ!」

そう叫んだつもりだった。

けれど、俺は首筋に衝撃を受け膝から崩れ落ちた。